自己完結型追想思考整理術

(最初に書いておきますが何も纏まりがないただの自己満足です)

 

 

 

今日(昨日)は7月7日、七夕らしい。

 

そんなニュースを流しながら、それよりも今年1の気温であったことの方が印象深く、知らない古人のが1年に1回会える幸せよりも今自分に起きている猛暑の方が大事(おおごと)だなって思ってしまった。

皆さま、いかがお過ごしでしょうか?

 

あっという間に2023年も半分が終わり折り返しに入っている。

年々、1年過ぎるのが早くなっていきこのまま三途の川まで助走し始めてるのでないか。

0歳から20歳までの体感速度と21歳から死ぬまでの体感速度は同じらしい、って何かで見てから人生すら折り返している気がしてならない。

 

 

最近は仕事で考えることに頭を悩ませている。

いや、考えることも仕事なんだけど、今頭を悩ませているのはちょっと違う気がする。

 

気付けば10年目に突入し、中堅っていう括りの中でも2桁突入は何か特別な気がしている。

というよりも、弊社の給与体系の改定により今年からそれとなく役職が付いた。

それ自体は嬉しいものではあるが、その分の責任と入社して以降直属の下が1人も入ってこない状況なのに無駄な肩書きが付いてしまい経験とのギャップにそこはかとなく気持ち悪さを感じている。

合わせて人事異動でうちの部署は不思議な状態になっていて、文字通り"少数精鋭"となっている。

いや、元々特殊な職種であるから人が入らないのは仕方ない部分はあるけども…ヒラがいない3人全員が役職つきの部署ってなんやねん(心の声)

 

そんなことを考えながら3ヶ月仕事をしていて、雑務が増えたことで臨床にさける時間が減ってしまった。

割と仕事好き人間だし、自分の仕事に誇りを持ってはいる(そのために大学行って国試取ってるし)ので臨床実践自体が嫌では無い。

むしろ、"誰かの役に立っている"ということが自分の存在意義となってしまっているため、アイデンティティにもなっている。

その意義が減ってしまいパソコンに向かう時間が増えたことで何かモヤモヤしている。

もちろんそれでも担当ケースは持っているので臨床にでてはいるけど、その雑務で向き合う時間が減ってしまっていることが多分原因なんだと思う。

 

 

「また伺いますね」

「ありがとうね、楽しみにしているわ」

って病室で話した人が翌日亡くなってしまうような世界。

 

後悔した関わりはたくさんあるし、未熟だなって今でも思うことがたくさんある。

医者や看護師ではないから、直接的に何かをすることはできない。

 

元々変化よりも現状維持が好きなタイプではあるのでそのせいでもあるんだと思う。

 

何かが変わるときは何かを犠牲にしないといけないことが多く、その犠牲に心を向けてしまうことが多いから余計にそうなるのだろう。

 

 

 

何が言いたいのかっていうと、みんな幸せになってくれって話です。

笑って過ごせるだけで幸せって思っていたいね。

それは時限爆弾のようなもので。

仕事柄、他人の人生の岐路に関わることがほとんどなのですが、最近ふと思い返したことと眠ってた下書きを消費するために書き出してみる。

 

 

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オタクになって数年。

短い期間ではあるけど、推しメンが卒業したり通っていたグループが解散したりと、オタクである上で避けられない出来事は一通り経験した。

 

そんな中で、ふと考えたことがある。

 

「なんで終わりが分かってるものに自分の時間やお金を使っているのだろうか」

 

 

これは誰もが考えたことあるんじゃないかと思う。

アイドルってものは無限じゃなく有限であり、その終わりは意外と短い。

もしかしたら明日終わってしまうかもしれないし、半年後なのか1年後なのか。

そういうものに、どうして時間やお金を費やしているのだろうか。

チケット代やチェキ代も正直安くはない。

真面目な話、少し良いご飯を食べに行ったり旅行をそれなりすることも出来る、欲しいものを買うための資金にもすることはできる。

多分新車は買える←

 

大学や職場の同期や後輩が結婚したり子どもができて、インスタやFacebookはそんな投稿ばかり。

自分の人生とはなんなのだろうか。

 

 

 

"うるせぇ!オタクなんて冷静になったら出来ねぇよ!"

って思うだろうけど少し冷静に考えてみて欲しい。

これまで活躍してきたアイドルで今も形が変わらずにずっと活動しているグループがあるだろうか。

何周年ってグループはあってもメンバーが歳を重ねて亡くなるまで活動したところはないと思う。

国民的アイドルグループですら解散や活動休止してしまっている。

超大手ですらそのような世界なのだ。

 

アイドルは時限爆弾のようなもの。

いつかはふとした瞬間に消えてしまい、何も残らない。

残るのは大量のチェキと思い出くらいだ。

 

それなのに、どうしてアイドルオタクを続けるのか。

 

 

自分の場合だが、それはもう単純に好きになってしまったから。

推しメンが好き。グループが好き。楽曲が好き。

好きという形も色々あるけど、自分はどれも大事だと思っている。

若しくは、人生の絶望から救い上げてくれたから。

 

 

有限だからこそその瞬間を見逃したくないという気持ちがあるし、その中で日に日に成長していくスピードに追いつきたい。

"アイドル"という有限の時間を通して、自分の生活の活力になり、頑張っている姿に刺激を受けて自分も日常生活を頑張っていきたい。そんな気持ちになる。

 

"人は必要な時に必要な人と出会う"

きっとその時の自分に必要だったから出会い、好きになったんだと思う。

ひょんなことからアイドルが好きになり、オタクになる確率ってすごいものだと思う。

今の推しメンに出会ったのも思い返すと必要としてたときに出会ったんだなって思う。(内容は割愛、気になったら直接聞いてくれ笑)

 

趣味が合うアイドルから、自分の心を支えてくれる存在になり、今度は自分がその分返してあげていきたいと思った、夢を持ち声に出すことが大切だと体現した人。

何もかも無気力な日々の中で、癒しをくれて自分自身の信念と夢を思い通し、1つずつ目標を叶えて夢を実現していこうと努力する人。

 

 

僕はその愛しい時限爆弾が爆発するその時まで、一緒に喜怒哀楽しながら最期を迎えたい。

例えば、おみくじで大吉が出たような。

お題「ささやかな幸せ」

 

いつもと変わらない日常。

いつものように目が覚めて、いつものように働いて、いつものように夢を見ながら眠る。

そして、また同じように目が覚める。

日々の過ごしている毎日に、実はささやかで小さな幸せがあるのかもしれない。

 

例えば、いつもように目が覚めなかったら。いつものよう働けなかったら。いつものよう夢を見ながら眠れなかったら。

きっと、それに気付いた時には、何かが変わってしまった時なんだと思う。

日々の生活の中に、実はささやかな幸せというものが転がっている。

それは、「宝くじが当たったこと」や「仕事が成功した」などの大きなものではなく、「今日食べたご飯が美味しかった」や「天気が良くて気持ちがよい」など小さなものなんだと思う。

そういうものが積み重なって、大きな幸せに繋がるのかな。

 

きっと自分では良くなかった1日だとしても、その時間全てが悪かったのではなく、悪かったことが一番印象深いのだろう。

眠る前に1日を思い返し、その中で、少しでも嬉しかったことや心が弾んだことがあれば、少し気持ちが軽くなり、明日も良い日になるかな、なんて気持ちにもなれるかな。

 

物事は考えようというけれど、その意味付けするのは、きっと自分自身だから。

そう思えるようになれたら、生きてる世界も悪くはないな~、くらいに思えるようになるんじゃないかな。

 

今までの悪かった出来事にも、良い意味づけができるようになったら、「大人」になった瞬間なのだろう。

 

 

そう思えるようになるのが一番難しいけど。笑

 

 

 

もう少しポジティヴに考えられるようになりたい、五月病になりそうな人より。

 

 

 

シロノワールを頼むには少し勇気がいる

またもや久々の更新となってしまった。

最後の更新から半年以上経過し、定期的に更新するという目標は呆気なく砕け散り存在していたことすら本人が忘れていた。

そういうところがダメなんだぞ、自分よ。

 

 

世の中は去年に比べて良くなったかというとそういうわけでもなく、逆になにも変わっていないどころかむしろ悪化しているような気がしてならない。

新型コロナウィルス!と話題になっていたが、その新型が変異を続けているので新型の新型の新型コロナウィルスみたいなことになっていて、もうイタチごっこやん、と肩を落とすような状況である。

おかげで今年も自粛という名の引きこもり生活となっているが、さすがに2年目となるともうやることがないというかどの塩梅であれば許されるのか探るようになってきた。

最近は個人的に色々なことがあったため、自宅に引きこもっていても鬱々とすることがあるので、散歩がてら近所の喫茶店に出かけ読書に勤しんでいる。

◯メダ珈琲店には毎休日お世話になっております。

休みの度にそんなことをやっているからそろそろ店員さんにあだ名をつけられているような気もしている。できるだけ紳士的な振る舞いをしているので肯定的なあだ名がつくことを願う。

あと、可愛い店員さんがいるのもポイントが高い。危うくコーヒーと共にチェキをオーダーするとこであった。チェキ撮ってほしい(オタクするな)(店員さん目的ではない、決して!)

 

そんなこんなでゲームばかりやっていた去年のGWに比べるとだいぶ生産的なことをやっている気もする。

おかげで部屋の中に小説が溢れていて、もう本棚に入らないので平置きしているような環境である。ブック◯フ様様だ。

そんな中で読んだとあるエッセイ集がとても面白かった。

筆者が体験した何気ないことが書いているものだが、「そんなこと体験することある!?」みたいな奇想天外なことやぶっ飛んだことをやっていて少々刺激を受けた。

そのせいか、自分の過去を振り返りそんなエピソードあったか考えてみたが、そんなに面白いことはなく少し嘆き悲しんでしまった、、、カムバック俺の青春。

その中でなんとなく印象残っている記憶を掘り起こし残しておこうと思う。ただの記憶として(ここ重要)

 

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高校3年冬から春にかけてのある日。

入試も終わり志望校の合格発表を友達と見るはずが運悪くインフルエンザに罹ったため自宅で1人で見るというイベントを終え、残りの授業を消化し、少し長い春休みを満喫している中である時母親からこう言われた。

「大学入る前にアルバイトしてみたら?」

 

高校3年間は(一応)男子バレーボール部に所属しそれなりに活動していた。

おかげで超弱小(前提としてとある専門高校であったので男子生徒が絶対的に少ない)であり創部以来公式大会で1勝もしたことなかったが、自分たちの代で「1勝をする!」という目標を達成することができた。

それを言い訳としてアルバイトすることを避けてきたのである。別にしたくなかったわけではないが、なんとなく高校生で働いたら負けな気がしていた。

まぁやることないし大学生にもなるしお金を稼ぐことをしてみようと思いアルバイトをしてみることとした。

しかし、初めてのアルバイトであり大学も自宅からは距離があったのでとりあえず派遣や短期のアルバイトをしようと思い親に相談したところ、母親が当時やって行った派遣バイトの関係で短期アルバイトを募集しているものがあった。

それは「某パン工場でのライン作業」であった。

見出しには「軽作業!1日から歓迎!」みたいなものが書いてあった。

これならアルバイト初心者の俺でもできるんじゃないか!日給も悪くはないし!

そんなことを考えながらとりあえず申しこみをしてみることにした。

 

アルバイト先に連絡をしたらあれよあれよと面接の日程が決まり、人生初めての履歴書を書き始めた。

当然ながら高校生の履歴書なんてのは基本的な個人情報と学歴くらいしか書くことがない。

志望動機も「時間が余ってるし、親に働けと言われたから」みたいにニートで実家にパラサイトしているようなものしか浮かばなかったが、そこは一応文系(しかし国語が一番苦手)であったので適当な理由を考えた。

面接自体も特に難しいものはなく、当日何時までにここに来てくださいみたいな説明くらいで滞在時間は30分くらいだった。

とりあえず2日間だけ働いてみることとした。

 

アルバイト初日当日。

早起きをして電車やバスを乗り継ぎ、某パン工場着いた。

早速指定されたところに行くと人混みがあり、その先で今日はどこで働くのか振り分けがされていた。

列に並び自分の番になり、作業着を着たおじさんに働く場所の振り分けがされた。

「〇〇さんは、えーっと、和菓子のレーンへ行ってください。」

あれ、パンじゃないの?とか疑問を抱きつつ、言われたロッカーの場所へ行き作業着に着替える。

ロッカーにはたくさんの人がいて、こんなに働いてる人がいるのか!と衝撃だったこととロッカー列同士の間隔めっちゃ狭っ!!!ってことは覚えている。1人分の通路しかないから自分のロッカーまで行くのも一苦労であり着替える時も周りをめちゃくちゃ気にしながら着替えた。

あと隣で着替えていたおじさんのタンクトップがピンクであったことが記憶に刻まれている。

 

着替え終わった後は徹底的な消毒を受け、職員に先導され目的の和菓子レーンに到着した。

余談だがエアシャワーを初めて体験したのだが吹っ飛ぶかと思った。

同じレーンには自分と同じような年代から50代くらいまでと幅広い年齢層の人がいた。

色んな人たちがレーンに並んだりレーン越しに向き合ったりしているのはなんだかシュールであった。

そんなことを考えていたら始業のチャイムがなった。

ここからが、僕にとって大変な時間の始まりであった。

まず最初の作業は、ベルトコンベアーから流れてくる桜餅(本体)を桜の葉をおいてその上に乗せ畳むという作業であった。

文面だけをみると本当に軽作業だと思う。自分でもそう思う。

しかし、ベルトコンベアーの高さは腰くらいの位置であり、これを中腰キープしながら行うということが盲点であり軽作業ではなくなる理由となる。

最初は余裕余裕〜♪と作業をしていたのだが、15分くらい経ったところで腰の違和感を覚え始めた。

おかしい、一応3年運動部で身体を動かしていたのになんだこれは。腰が猛烈に痛い。スパイク練習中にボールを拾ってたら腰を撃ち抜かれた感覚。

腰を伸ばしたりするが、その間にも永遠にベルトコンベアーで桜餅が流れてくる。エンドレス桜餅。

正直膝立ちできればめちゃくちゃ作業は捗るだろうがそんなことは許されるわけがない、衛生的に。

ライン作業ってこんなにも大変な作業なのか…正直めちゃくちゃナメていた…軽作業ということと自分の体力を…

腰の痛みを適度にほぐしながらなんとか作業を継続し昼休みになった。

やっと中腰から解放され食堂にいくと同じような作業着を着た人たちでごった返していた。

貧乏学生であった自分は食堂でタダで食べれたこの工場で作っているパンをひたすら食べた。ありがとう、ラ◯チパック。

 

さて、午後も同じようなライン作業であった。しかし桜餅ではなく違う餅が流れてきた。

柏餅であったりよもぎ餅であったり、〇〇餅が永遠に流れてきた。たぶん一生分の餅を見たと思うし取り扱ったと思う。

そのおかげかしばらく餅は食べる気がしなくなった。

ひたすらそんな作業を午後5時半まで続けるんだが、いかんせん時間経過がゆっくりに感じる。

もう1時間くらい経ったでしょ⁉︎と思ったらまだ20分くらいしか経過していなくて自分の時間感覚が憎たらしくなった。

そして腰も徐々に終わりを迎えようとしている。同世代ならまだしも、自分よりも年上の人たちがなんで大丈夫なのか謎で仕方ない。

腰、痛いですよね⁉︎って話しかけて腰痛トークで仲良くなれるかな?とか考えたけど、人見知りなのでそんなことはできず、ただ淡々と黙々と作業を続けた。

ライン作業を永遠とできる人の腰はきっとなにか特別なもので出来ていると思った。もしくは特殊な訓練積んでいるか。

 

こうして人生初めてのアルバイトは終了した。

帰りのロッカーでアルバイトをやり遂げた達成感と少しの自己肯定感、そして腰の痛みを抱いたまま着替え退勤した。

帰りもピンクトップおじさん(ピンクのタンクトップを着たおじさん)がいたが、この人も1日働いたのかと思ったら少し敬意が払えた。

 

ちなみに2回目のアルバイトは、冷蔵室みたいなことでベルトコンベアーから流れてくる苺のヘタ取りを7時間した。

極寒かつ同じ作業繰り返しは精神がどうにかなってしまいそうだった、、、これ続けられる人はまじすごい、、、

 

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本当に記憶を思い出して書いただけでなんのオチもないのは許してほしい。

これを糧に単純作業は自分に向いてないと思い、大学入学後み全然違うアルバイトを始めた。

今では良い経験だったなと思う。またやりたいとは思わないが、、、

 

 

絵空事を望んだっていいじゃないか

世間はコロナということが徐々に薄れつつあり、少しずつ2019年のような生活に戻ってきているここ最近。

ニュースでは内閣総理大臣がなんちゃらだったり、芸能人の訃報が立て続け、僕の周りの世界ではないなにか別の世界にいるような感覚になっている。

 

 

僕といえば少しずつ自粛を解禁しつつあるも、どこまで解禁していいか判断が難しく中途半端な生活を過ごしているような気もしている。

平日は相も変わらず自宅と職場の往復+近所に買い物、休日は少し出かけたりなんなりして自粛ピークであった頃よりも人にある機会が増えた。

やはり職場の人以外と会うのは気分転換になるし、糸が引っ張られた緊張状態が少し緩むような感覚になる。

要は、くだらない話をしたり好きなことができるのがとても嬉しい。この上なく嬉しい。

かと言って、どこまで解禁してよいのか…という最初のループに戻っていく。

だれかこのループから助けてくれ。できれば退職するという方法以外で。

 

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最近いろんな場面で、「言葉」が大切であることを改めて実感している。

 

ネット社会になってから、簡単に他人とコミュニケーションを取ることができるようになり、遠くにいる人ともリアルタイムで話ができるのはとても良いことだ。

その反面、知らない人や言葉を簡単に可視化できるようになったせいで、他人を傷つけるような言葉もよく見られるようになった。

最近も他人によるネットでも誹謗中傷で自殺者が出たというニュースもあった。

 

「言葉」というものはとても不思議で、その一言が他人を勇気づけたり逆に精神的に追い込んだりしてしまうことができる。薬でもあり、毒でもある。

 

ちょくちょく他人(自分以外の人とい意味)に対して攻撃的なものを見ると、なんとも言えない気持ちになることがある。

 

 

僕の仕事では、相手に掛ける言葉や感情にとても気をつけなければならない。

その言葉で少なくともその場での気持ちが大きく変わってしまう可能性あるから。

所謂「エンパワメント」と「セルフエスティーム」

仕事だけでなくプライベートでも出来るだけ気は使う。

こんな対面せずとも言葉を交わせる時代だからこそ、人に掛ける言葉は慎重に選ばなきゃならない。

というよりも相手の表情や感情かわからない無機質な文字だけでは推し量れないことが多く、だからこそその無機質さにどれだけ気持ちや感情を乗っけて相手に伝わるかが大事なんだと思う。

 

 

自分の言葉で少しでも相手が嬉しい気持ちや救われる(かなり大袈裟だかが)気持ちになってくれるのであれば、僕はそれが1番嬉しい。

 

少しでも自分が好きな人たちの気持ちにより添えれば。

そうしたらきっと今日より明日は良い日になる気がする。

そうすれば明日はみんな少し上を向いて歩いていける。

 

 

 

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最後に自分が好きな小説の好きな文章を載せておく。

 

"困難に向かい合ったとき、もうだめだ、と思った時、想像してみるといい。三時間後の君、涙が止まっている。二十四時間後の君、涙は乾いている。二日後の君は、顔を上げている。三日後の君、歩き出している。"


"とまらない涙はない。乾かない涙もない。顔は下ばかり向いているわけにもいかない。歩き出すために足があるんだよ。"

原田マハ著「本日は、お日柄もよく」

 

 

秩序のない現代にシャイニングウィザード

世間では新型コロナウィルス、の話題ばかり。

テレビをつければ「○○県で陽性者が〇人!」「芸能人の○○さんが亡くなりました」という日々同じような内容ばかりでもういいよ、という感情しか出てこなくなった。

毎日同じような話題、同じような日々の繰り返しでどんどん感情が無くなっていく感覚に陥っている。(元気ではある)

残っているのは、外出自粛の中大勢で買い物に行ったり県外までパチンコに行くような気が狂っている人に対する怒りである。

 

どこかに立ち寄るわけでもなく、文字通り職場と自宅の往復。

どこかに外出することもできなくなり、せっかくの休日も1日家にいることがほとんどとなった。下手のすれば一歩も外に出ないなんてこともある。

ちなみの先週末は洗濯物を干すためにベランダに出たのみであった。

 

そのためか時間に余裕が生まれた。

だからといって特に何かをするわけでもなく、ただ無駄に時間を過ごしていたり「このままではダメだ!」と思いなぜかテレビゲームに勤しみ、その結果「結局無駄にすごしているやん」というツッコミをしている。

唯一良かった点は自炊が捗ることと家の掃除をよくするようになったこと。

時間は無限であり、かつ有限であることを感じている日々。

 

今年に入ってから早5か月。去年とは大きく違った日々を過ごしている。

とはいってもその大半が新型コロナウィルスの関係で出かけることも叶わず。

去年であれば、休日は現場に行き、ライブを観ながらだれが作ったか存じ上げないが推しに「言いたいことがあるんだよ!!!」とガチ恋口上をうっていた。

今はコロナウィルスにもの申し上げたい気持ちでいっぱいである。「責任者出てこい!」

 

未だに2019年に取り残されているような感覚であり、気が付けば過去のことを思い出しては独り感傷に浸っている。きっと将来は「あの頃は良かった」と若手に言う老害になるだろう(なりたくはない)

 

 

 

自宅と職場の往復ばかりしているが、最初はその生活も慣れるっしょ、と思っていたが、知らず知らずストレスが溜まっているようで人と話すと多弁になってしまっているようだ。

 

職種的にも様々なところからジレンマやストレスに曝されることが多いため割とメンタルは強いと自負していたが、さすがに1か月ストレス解消をする方法がないとダメだなとなっている。

なので日々のストレスをお酒と一緒に流し込み食事と惰眠を貪り食い、ストレス解消となっている。

それに比例して肥えていく日々 is Dead

 

 

 

早く自由に出歩ける日々が帰ってきてほしい。

憂鬱な日々に楽しさを。コロナにはアルコールを。

全ては落ち着いて何も気にせず楽しめる日々を待っている。

もう少し医療現場で頑張ります。

 

 

言葉に色があればいい

人間というのは、環境に左右される生き物である。

 

これは自分が常日頃から感じていることであり、悩んでいることでもある。

自分の職業上、様々な他人の人生について触れる機会が多い。

というよりも、その人にとっては大きな岐路に関わることが多い。その中でその人が過去にどんな生活をしてきたのか、どんな環境で過ごしてきたのか、相手を知ることから始まる。

例をあげると、その人の今後の人生をどのように生きていきたいのかを一緒に考える。ただ、その人の歩みたい人生が大多数の人からは反対されるようなこともある。なぜそのように考えているのかを知るために、その人の中にある根底を知るためにどのような生活をしてきたのか話を伺うことになる。

同じ人間がいないように、自分以外の人と同じ人生を送ってきた人はだれ一人としていない。例え結果が同じであって、そこに至るまでのプロセスは違っており、あくまで「似ている」ということはあるかもしれない。

人生自体、自分だけではなく周りの人や社会環境に依存して形成されていく。

自分の思考回路や人格は0歳から育っていた環境によって形成され今に至っている。

 

「君の感情は、君以外のだれのものでもない」

何で聞いたかは忘れたけど、昔に聞いたことがある言葉。

自分が抱いている感情は自分だけのものだし、それを「完全」に共有することはできない。自分の考えを100%理解してもらうことは超能力者でない限り、他人(親しさではなく自分以外の人)にはできない。

特に「苦しい」「悲しい」などのマイナスな感情においては顕著であると思う。

もし、そんな感情を抱いてしまった場合、他人に助けを求めたらどのようなことを期待するだろうか。

自分の場合は、話を「聴いてくれる」こと、「共感する」ことを期待することが多い。

なぜなら、上記のように感情の完全な共有をすることはできない。だからどんなに自分の話を聞いても100%を理解することはできない。それでもなお、話を聴くことで共有をしようとしてくれるという「気持ち」が嬉しいのだと思う。

自分のことをわかってくれようとしていることに救われる。

自分の抱いているもの(こと)の60%でもわかってくれるのであれば自分にとっては満足である。(自己満足)

それでも決断が自分でしなくてはいけない。他人から助言をもらったところで、それが正解でもないため、自分の人生において責任において決めなくてはならない。(そもそも悩みにおいて正解があることが少ない)

何が正解で何が不正解なのかなんてだれにもわからないし答えなんてないから、だれかのせいにするような人生を過ごしたくないね。

 

 

 

まぁ何が言いたのかっていうと、自分と同じ人生を歩んでいるひとなんていないし似ているように見えて全然違うこと。だから周りに左右されずに生きれば良いし、もし自分が独りでは耐えられないときに話を聴いてくれる人がいるのであれば、自分の人生において大切にしよう。ってこと(笑)

それが家族でも友人でも恋人でも。付き合いが浅くても深くても。

 

 

P.S

最近思考することを止めていたためか思考力や物事に関する感性が死んでいっているような気がする。支離滅裂になるが、何か感じたらアウトプットしていきたい。

(いつまで続くかな…。)